「オールウェイズ・ラブ・ユー」
本田美奈子さんは生前、デビュー20周年に当たる2005年4月20日に記念アルバムを発表することを予定し準備をしていたが、この年の初めに病気が発覚したためにこの計画は実現しなかった。翌年に一年遅れのアルバムを制作することを励みに療養生活を送っていたが、2005年11月6日に多くの人の祈りも空しく帰らぬ人となった。彼女の生前の願いを叶えるために関係者の尽力により制作され2006年4月21日に発売された一年遅れのデビュー20周年記念アルバムが「心を込めて…」である。このタイトルは美奈子さんが手紙やメッセージなどを書く際に名前と共に必ず書き添えていた言葉から採られている。収録されたのは入院直前に記念アルバムのために録音していたものをはじめとする未発表音源などである。
ここに収録された音源の中に、洋楽のスタンダードな名曲をカヴァーしたものが4曲ほど存在する。これらはNHKの総合テレビで1995年から99年にかけて放送されていた朝の情報番組『おはよう5』でBGMとして流すために録音されていたものである。幸いなことにマルチトラックテープが残っていたため新たにリミックスされたものが収録された(ライナーノートの岡野博行氏による曲目解説)。
これらの曲の中でも私が最も気に入って聴いているのが「オールウェイズ・ラブ・ユー」(原題“I Will Always Love You”)である。この歌はアメリカのカントリー歌手、ドリー・パートンさんの作品だが、何と言っても映画『ボディーガード』の主題歌としてホイットニー・ヒューストンさんが歌ったものが有名である。
私はホイットニーさんというと例えば「All At Once」などはとても好きなのだけど、この「I Will Always Love You」については実はあまりいい印象を持っていなかった。何と言うか、ただひたすら声をはり上げて歌っているだけの単調な曲のように思えて、深い味わいを汲み取ることのできない作品という印象が強かったのだ。私はこの映画を見ていなくて、音源も持っていないのでTV番組などで(大抵はサビの部分だけを)BGMとして流されるのを聴いたことしかなかったせいもあるのだろうけど。
しかしこの美奈子さんの歌唱には一聴してすっかり魅了されてしまった。初めにア・カペラでひとふし歌った後にギターの伴奏と共に「And I...」と歌い出すところはたまらなくやさしい歌い回しで、ここは何度聴いても背筋がぞくぞくとするような感銘を覚える。そしてこのサビのメロディーは合計三度歌われるのだがその度に表情が違っている。
二度目の部分では最初よりも幾分強くきっぱりとした調子で最初の繊細な表情とは違った味わいを聴かせてくれる。最後に転調してからはフォルテで高らかに愛する人への思いを歌い上げてみせる。しかもどれほど強く歌っても決して力任せの単調な歌にはならないのが美奈子さんの素晴らしいところだ。声の強さを保ったままで地声とファルセットを自在に行き来する闊達な歌い回しは聴いていてくらくらと目眩いを覚えるほどである。
私は美奈子さんの歌唱によって初めてこの曲の素晴らしさに気づかされたような気がする。そしてこの歌唱は美奈子さんのポップス歌唱の最高峰を示すものと言ってもいいのではないかと思う。元々TV番組のBGMとして流されることを想定した録音なのでアレンジが必要以上にゴージャスでないことも美奈子さんの歌声をより際立たせてくれている。この音源がよくぞ残っていたものだと感謝に堪えない。
そしてそれと同時にこの歌を聴いていると洋楽のスタンダード・ナンバーを集めたカヴァー・アルバムのようなものを作ることができなかったものか、という欲深い思いも湧いてくる。ミュージカルでの圧倒的な評価を以てすればそうした企画も可能だったはずだと思うのだが、この時期のレコーディングの不作は返す返すも惜しまれることである。もし叶うものなら美奈子さんの歌う「If We Hold on Together」などもぜひ聴きたかったものだが…。
なおこの歌は全て元の英語の歌詞で歌われているが、美奈子さんの発音は‘v’と‘b’の子音の区別が極めて曖昧である。これはアイドル時代の「HARD TO SAY “I LOVE YOU”」から「あなたとI love you」、「I LOVE YOU」を経てクラシック時代の「AVE MARIA」に至るまで一貫している。
思い出すのは美奈子さんが亡くなった時のブライアン・メイさんによる追悼メッセージである。彼は英語の子音の発音のことで美奈子さんを厳しく咎め過ぎて泣かせてしまったことを後悔している、と語っていた。あるいはもしかすると彼が指摘したのはこのあたりのことだったのかも知れない。日本人には英語の子音を正確に発音するのはとても難しいのだよ、ブライアン…。
もちろん全体のリズム自体は的確にとらえているので音楽として聴く分にはそれほど気になるものではない。しかしそれでも敢えて、そうした微細な瑕疵をも愛おしむつもりで、負けず嫌いの美奈子さんが流したという悔し涙に思いを馳せつつこの歌を聴きたい気がする。
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