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「wish」

作詞:本田美奈子./一倉宏 作曲・編曲:井上鑑 演奏:INOUE AKIRA & M.I.H.BAND
シングル「wish」UUCH-5074(2006.11.01)所収。

今日は本田美奈子さんの三回目の命日である。これまで二度は感傷的に美奈子さんの逝去を悼むことしかできなかったが、今回はこれからを生きていかなければならない私たちの宿命を前向きに見据えつつ、彼女が歌うはずだった幻の復帰作について語ってみたい。

美奈子さんが入院している時、一連のクラシック・アルバムで編曲を務めていた井上鑑さんは復帰第一作となるべき楽曲をプレゼントしていた。当時福山雅治さんのツアーに同行していた井上さんはバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを製作して病床の美奈子さんのもとに届けた。福山さんの熱烈なファンだった美奈子さんはこれを見て泣いて喜んだという。

歌詞は美奈子さん自身がつけて歌う予定だったが、この構想はついに実現することはなかった。彼女の夢を叶えるためにデモDVDに参加したメンバーたちが追悼シングルとして製作したのがこの「wish」である。歌詞は美奈子さんが書き残していた言葉を基に一倉宏さんが補作して完成された。


美奈子さんの遺した言葉というのがどの程度のもので、完成された歌詞に一倉さんの創作がどの程度盛り込まれているのか私たちにはよくわからない。しかしこの「wish」の歌詞は晩年の美奈子さんの到達していた心境を窺い知るのに十分な資料である。臍帯血移植手術を受けた後に「心まできれい」とふともらしたという、そのきれいな心まで見透かすことができるような気がする。

美奈子さんはアイドルとしてデビューした当初から「アーティストでありたい」と繰り返し語っていたが、彼女が真に芸術家であったということはここに記された言葉たちが顕著に物語っている。そこで繰り返し語られているのは、あたりまえのことがいかに尊いものであるか、という晩年の美奈子さんが日々感得していたであろう感慨である。それは人類史にその名を残す偉大な芸術家や宗教家の至言にも比肩し得る域にまで達している。


「あたりまえの ことばかり/美しく思える/そんな日がある」「あたりまえの ことなのに/かけがえのない日々」といったフレーズからは、例えば唐代の禅僧、百丈懐海が「如何なるかこれ奇特の事」と問われて答えた「独坐大雄峰」という言葉を思い出す。禅師が一人大雄山に坐すというあたりまえのことに見出していた奇跡のような素晴らしさと同じことを、美奈子さんはおそらく会得していたのだろう。

「そんな日がある」という言い方からは『カラマーゾフの兄弟』で主人公のアリョーシャが「人生のあらゆる喜びを味わい尽くすのに一日あれば十分ではないですか」といったようなことを語っていたのを思い出したりもする。美奈子さんが病床でたくさんの愛に囲まれながら過ごした日々は、まさに「そんな日」にほかならなかったのだと窺われる。


「生きる意味は 生きること」というのは晩年の美奈子さんが到達した心境を端的に言い表した言葉で、“LIVE FOR LIFE”というフレーズはこの歌の仮のタイトルとして用いられたほか、美奈子さんの遺志を受け継いだ活動の名前にもなっている。この「生きるために生きる」というトートロジーには、阿弥陀経の「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光」という一節や、「丙丁童子来求火」という禅の言葉にも似た、容易には汲み尽くすことのできない深い知恵が宿されているのを感じる。

思い出すのは『三人姉妹』の幕切れでヒロインの一人、オリガが絞り出すように語った「何のために私たちは生きているのか、それがわかったらね!」というセリフである。この歌を聴いていると、20世紀の初めにアントン・チェーホフが発したこの問いに100年の時を経て一つの答えが提示されたようで、感慨深い思いがする。現代思想の狂騒が通り過ぎた後の、荒涼たる思想的砂漠ともいうべき不毛の地に取り残された私たちにとって、このような至言が一人の歌手から生み出されたのは一つの希望でもある。現代の哲学教師たちがいかに躍起になって意味論を考察の主題から排除することを試みようと、私たちは生きることの意味を希求せずにはいられない存在なのだ。


美奈子さん自身は結局この歌を完成させることも自ら歌うこともなくこの世から去っていった。だからこの歌の録音でメイン・ヴォーカルを務めた福山雅治さんが「この曲は永遠に未完成なままの曲」と述べたように、「生きる意味は 生きること」というこの命題も、いつも開かれたものとして私たちに現前するのだと思う。「生きるために生きる」というその意味は、私たち一人一人がそれぞれに見出していかなければならないものだろう。それを自らの生のうちに実践していくことは、今や美奈子さんのいなくなったこの世界を生きなければならない私たちの、悲しくも幸福な義務として受け止めていきたい。

記 2008.11.06

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