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「つばさ」

作詞:岩谷時子 作曲:太田美知彦 編曲:佐橋俊彦
シングル「つばさ」(1994.05.25)、アルバ「JUNCTION」(1994.09.24)所収。現行のCDでは「LIFE〜本田美奈子. プレミアムベスト〜」UMCK-9115(2005.05.21)、コンピレーションアルバム「名曲発掘! ジュエル・バラッズ」PCCA-02189(2005.10.19)に収録されている。このほか『ミュージックフェア』出演の際のスタジオライヴの音源が「心を込めて…」COCQ-84139(2006.04.20)に、阿蘇ファームランドでのライヴ映像が「クラシカル・ベスト〜天に響く歌〜」COZQ-255,6(2007.04.20)付属のDVDにそれぞれ収録されている。

本田美奈子さんは主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その頃のオリジナル曲の中でも最も人気の高いのが「SHANGRI-LA」以来四年ぶりのシングルとなった「つばさ」である。

美奈子さんは『ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当した岩谷時子さんと懇意になり、その後の歌手活動に多大な影響を受けることとなった。『ミス・サイゴン』閉幕後に制作されたアルバム「JUNCTION」では、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』出演以来のつきあいである故渋谷森久氏とともに岩谷さんがプロデューサーを務めた。「つばさ」はその先行シングルであり、岩谷さんによる作詞である。


この曲は当時オッペン化粧品のTVCMに起用され、美奈子さん自身も出演して歌唱する姿を披露した。そのこともあって脱アイドル以降の美奈子さんの楽曲の中では比較的広く世の中に知られているようである。その映像は昨年8月に原宿で行われたフィルムコンサートでも放映された。

ただ私には当時これを見た記憶がなく、したがって残念ながらこの歌のことも美奈子さんが亡くなるまでほとんど知らなかった。「1986年のマリリン」以降、私にとって美奈子さんを好きだったことはつらい想い出だったし、風の便りにミュージカルで大活躍していると聞いてもそれ以上深く知ろうとは思わなかった。この頃は私自身音楽どころではなかったということもある。

それでもサビのメロディーには何となく聴き覚えがあり、当時TVのCMで美奈子さんの歌が流れるのを見て胸の中の何かが微妙に反応したという記憶もかすかに残っている。おそらくCMには美奈子さん自身は登場せず字幕で名前だけ紹介されるヴァージョンというのもあって、私はそれを見たのではないかと思う。美奈子さんの姿をもし目にしていたら、さすがにそれははっきりと記憶していないはずはないからだ。

またこの歌は女性歌手による隠れた名曲を集めたコンピレーションアルバム「ジュエル・バラッズ」にも収録されている。このアルバムが発売されたのは美奈子の亡くなる半月ほど前のことで、私もうろ覚えながら新聞広告の収録曲一覧を見て美奈子さんの名が記されているのに気づいた記憶がかすかにある。


そんな次第なので、私がこの「つばさ」を知ったのは美奈子さんの逝去後であり、強い思い入れを以て愛聴してきた想い出の曲というわけでは決してない。しかしこれが美奈子さんの歌手としてのキャリアにおいて特別な記念碑的な曲であることは一聴して明らかだった。

注目すべきなのはこの歌が作られた時期である。90年代の半ば頃というのは日本のポピュラー音楽の歴史の中でも最も言葉が軽んじられていた時代といっていいように思う。今年の8月に亡くなった作詞家の阿久悠さんはこの時代の風潮を「本当は歌詞なんていらないのだけどラララじゃ舌をかみそうだから適当に言葉をつけておくのよ」といった趣旨の言葉で表現していた。あの頃は歌の世界から言葉というものが消え去ってしまうのではないかと本気で危惧したものだった。そうした時代にあってこのような言葉の魅力を抜きには考えることのできない楽曲が制作されていたというのは驚異的であり、美奈子さんの歌に対する姿勢を窺い知ることができる。

美奈子さんと岩谷さんの関係については普通「美奈子さんは岩谷さんと出会い認められることによって歌手としてより成長した」という文脈で語られる。それはもちろんその通りだろうが、私は逆に岩谷さんも美奈子さんと出会うことによって作詞家として啓発を受けたという面もあったものと推察する。美奈子さんのような歌と真っ直ぐに向き合う歌手と出会うことがなければ、岩谷さんもこのような格調の高い詞を作る気にはならなかったのではないだろうか。この「つばさ」をはじめとする「JUNCTION」の収録曲にしても、後のクラシックアルバムでの一連の日本語詞にしても、そこに描かれた豊饒なイマジネーションの世界は「君といつまでも」や「恋のバカンス」のようなヒット曲にはない高みにまで達していると言っていいと思う。


この曲のレコーディングはオーケストラとの一発録りで行われたと言われている。曲の後半には十小節にわたって30秒ほども声を伸ばす“ロングトーン”があり、聴きどころの一つとなっているが、これは作曲した太田美知彦さんによる指示ではなく、美奈子さんのその場での思いつきだったという。いかにも美奈子さんらしい、奔放で大胆な発想だと思う。

この曲は大空を羽ばたいて飛ぶイメージを喚起する歌詞も、曲調やダイナミックなオーケストラ伴奏のアレンジ、そしてロングトーンも含めて美奈子さんの歌唱も、全てが力強く聴き手を鼓舞するような音楽である。したがって聴き手にもそれを受け止めるだけの強さが要求される作品とも言える。

正直私にはこの曲を聴く時には少し身構えてしまうようなところもある。「あなたもある つばさがある/飛び立つのよ 空へと」と言われても今の自分には素直に受け取ることはできず、促されて飛び立とうとしても己れの非力さにおののいて足がすくむばかりである。むしろたとえば 「翼の折れたエンジェル」のような曲にこそより強くリアリティーを感じてしまう自分には所詮美奈子さんは遠い存在なのだ、などと自虐的な気分になったりもする。


美奈子さんの代表曲とも言える存在でありながらも、この曲の知名度は未だに「1986年のマリリン」に遠く及ばないように見える。ファンとしてはもっと広く世の中に知られるようになって欲しいと願うところだが、幸いなことに『レ・ミゼラブル』での共演以来美奈子さんが姉のように慕っていた岩崎宏美さんがこの歌を歌い継ぐ決意をして下さっている。すでに昨年の9月に発売されたカヴァーアルバムの第3弾「Dear Friends III」にファンからのリクエストの結果が一位になったことを受けて「つばさ」を収録していたが、今年4月にプラハでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演して録音され9月に発売されたアルバム「PRAHA」にも美奈子さんへの献辞とともにこの歌を収録している。

プロの歌手にとって他の人の代表曲をカヴァーするというのはなかなか難しい決断でもあるのではないかと思う。オリジナルの雰囲気を少しでも変えてしまえばその歌手のファンの失望を招きかねず、かといって上手に再現してみせたとしても真似をしているだけと見なされかねないからだ。それでも敢えてこの歌を歌い継ぐ決断をしたのは宏美さんの美奈子さんを思う真情からだろう。美奈子さんは素晴らしい姉貴分を持って幸せだな、とつくづく思う。

ロングトーンについては「自分に歌えるかどうか…」と逡巡しながらもできる範囲で踏襲することにしたようである。美奈子さんと比較されることをも厭わないその姿勢に宏美さんの美奈子さんへの心からの敬意を感じる。

コンサートでも積極的に歌っていて、自分がカヴァーするだけでなくこの歌がスタンダードなナンバーとして多くの人に歌われるようになって欲しいという希望も述べておられるらしい。ただ宏美さんでさえいささかのためらいを感じざるを得なかったというあのロングトーンがほかの歌手にとってカヴァーを検討する際の障害になっているとしたら残念なことである。すでに述べたようにこの部分は作曲者の指示ではなく美奈子さんの思いつきに過ぎないので必ずしも同じように踏襲する必要はない。そのことを明示するためにも宏美さんに今度はロングトーンなしのヴァージョンをレコーディングしてもらえたら、などと望むのはあまりに欲深に過ぎるだろうか。


今年に入って二度もNHKの『のど自慢』で高校生が「つばさ」を歌うといううれしい驚きもあった。美奈子さんは初期のアイドル時代を除いてメディアへの露出の極めて少ない人だったので、どうしても私たちは若い世代の人たちがどれだけ美奈子さんのことを知っていてくれるのか不安になってしまう。しかし余計な心配をしなくても、美奈子さんの歌への真摯な姿勢はアイドル時代の華やかさを知らない世代にもしっかりと伝わっているのだろう。

この歌はこれからもきっと様々な場で様々な人によって歌われていくことになるだろう。「つばさ」は今や美奈子さんの手を離れ、独自の生命を獲得して自らの力で羽ばたこうとしている、私たちはそんな瞬間を目の当たりにしているのかも知れない。

記 2007.12.06

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