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「サン・アンド・ムーン」

作詞:リチャード・モルトビー Jr.、アラン・ブーブリル 訳詞:岩谷時子 作曲:クロード・ミシェル=シェーンベルク

デビュー当時からアイドルではなくアーティストでありたいと語ってきた本田美奈子さんが、アーティストとしての地位を揺るぎないものにしたのは周知の通りミュージカル『ミス・サイゴン』へのヒロイン、キム役での出演だった。『ミス・サイゴン』はヴェトナム戦争下のサイゴン(現ホーチミン市)で、地獄のような状況下に生まれた奇跡のような純愛と、それが招いた悲劇を描いたミュージカルである。

この作品はジャコモ・プッチーニの有名なオペラ『蝶々夫人』を下敷きにしていると言われている。実際にアジア女性が西洋の男性と恋に落ち、それが報われず最後に死を迎えるという筋書きは非常によく似ている。ただ両者の決定的な違いを一つ挙げるなら、それは『蝶々夫人』におけるピンカートンは初めから蝶々さんに誠意がなかったのに対し、『ミス・サイゴン』ではクリスはキムを心から愛しており、やむを得ずアメリカに帰り別の女性と結婚した後もなお、キムのことを絶えず気にかけていたという点である。その意味ではキムは蝶々さんより遥かに幸せだったといえるかも知れない。

このキムとクリスの美しい純愛を象徴しているのが第1幕の中ほどで二人によって歌われる愛の二重唱「サン・アンド・ムーン」である。このナンバーは第2幕でもクリスとの思い出を振り返るキムによって独唱で歌われる。このミュージカルの中でもとりわけ平和で美しい旋律が印象的なナンバーである。

この時間にして2分少々の短いナンバーにも美奈子さんの特徴はよく表れている。まず何よりも独特の緊張感を湛えた張りつめたような歌声(美奈子さんの恩師、服部克久さんの表現では「声に“悲壮感”がある」)。そしてダイナミクスを大きくとる表現はここでも生かされていて、「鳥鳴き…」の部分のスフォルツァンドにはいつ聴いてもはっとさせられる。

“モーニン”と呼んで慕った岸田敏志さんとも息の合ったアンサンブルを聴かせている。束の間の幸せとはいえ真実の愛で結ばれた二人の和やかな喜びを感じさせる歌唱である。


劇の筋書きについての詳細な分析は切りがなく長くなるのでここでは一点だけ気になることを指摘しておきたい。それは劇中での“ベトコン”の扱いである。キムの幼なじみである北部勢力についたトゥイがこの劇の中ではほとんど悪役のように扱われている。全体としては戦争の悲惨さを伝える作品であるとはいえ、ヴェトナム戦争の当事国であるフランスの出身である作者が敵対する勢力の人物を悪役のように仕立てた劇を作るというのはいかがなものかと思わずにいられない。もし日本の芸術家が日本の統治下の中国や朝鮮を舞台にして、親日派を主役とし抗日派を悪役のように扱う作品を制作したとしたら、それが国際的な評価を獲得するということがあり得るだろうか。日本人には許されないことがフランス人には認められるのだとしたら、それはアンフェアであるような気がする。

しかしそうした問題点を救っていたのが美奈子さんの演技だったと思う。残念ながら『ミス・サイゴン』の映像は今日に至るまでリリースされていないのだが、プロモーション用に一部の細切れの映像が公開されており、その中に美奈子さん演じるキムがトゥイのなきがらを抱きしめながら絶叫するシーンがある。この演技からは幼なじみの許婚をタムを守るためとはいえその手にかけてしまったキムの悲痛な思いが痛いほど伝わってくる。ライヴ録音盤のこの場面では群集のコーラスを引き裂くようにキムの泣き叫ぶ声が聴こえてくる。キムの内面の真実に迫るこの圧倒的な表現力は、ヘリコプターよりキャディラックよりこの劇の成功に与って力あったものと推察する。開幕にあたって「舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていたという美奈子さんの面目はここに躍如しているといっていいだろう。


私はミュージカルのことは正直よくわからないので劇評はこのくらいにして、ここでは少しこの頃の思い出話を綴ってみる。ロックバンド“MINAKO wish WILD CATS”を解散してソロに戻ったものの人気低迷にあえいでいた頃、後に自身“ガケっぷち”と呼んだこの時期に、美奈子さんは『新説三億円事件』というTVドラマに出演している。実は私は当時たまたまこの放送を見ていた。決して彼女を目当てに見ようと思ったわけではなく、この歴史的事件に少し興味があったので何となく見ていたというだけのことだった。

美奈子さんは織田裕二さん演じる主人公の恋人役を演じていたのだが、この時の彼女ははっきり言って少しも輝いていなかった。そもそも恋愛を主題としたドラマではないのでこの役自体がどうでもいいような役だったのだ。歌のないセリフのみの演技には興味のなかった美奈子さんにとって、この役はおそらくやっつけ仕事のようなものでしかなかっただろう。かつてトップアイドルとして一世を風靡したあの美奈子さんが、このままブラウン管のお飾りのような存在になり果ててしまうのか、と思うと切なく胸が痛んだのを微かに覚えている。


その彼女がミュージカルの舞台で大活躍しているという評判を聞きつけたのがいつのことだったか、もう思い出すことができない。『ミス・サイゴン』公演の最中だったのか、ロングランを終えてしばらく経った頃だったのか…。いずれにしてもかつてのあこがれの人がやっと自分が輝ける場所を見出せたのを祝福したい気持ちになったのは確かだった。それでも彼女のことをそれ以上深く知ろうとは思わなかった。…それを今さら悔いるのはやめておきたい。誰だって自分の心を深く傷つけて去っていった人の消息がわかったからといって、敢えて追いかけて会いに行ったりはしないだろう。

「…マリリン」に幻滅して気持ちが離れてしまって以来、私は美奈子さんのことを忘れようとしていたし、時たま気まぐれに思い出すことがあっても、その思い出は注意深く元の場所にしまい込んでいた。美奈子さんは私にとってそんな存在だった。ミュージカルを見に行けば会えると知ったところでそれが何になろうか…。

美奈子さんもそれを責めるほど冷酷な人ではないと思う。いや、美奈子さんだって自分が人の心をどんなに傷つけたのか、少しは思い知るべきなのだ、などど少し意地悪く考えてみたりもする。あるいは舞台の上でエポニーヌを生きた美奈子さんなら私の気持ちも少しはわかってくれるだろうか。

今となってはもはや忘れようにも忘れられない存在となってしまったが、それも悲しい宿命として受け容れるしかないだろう。実際のところ、それがどれほどつらいことだとしても、今の私には美奈子さんを忘れてしまうなんてことの方が遥かに悲しいことなのだから。

記 2008.08.06

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