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「パッヘルベルのカノン」

作曲:ヨハン・パッヘルベル 編曲:井上鑑
アルバム「」COCQ-83683(2004.11.25)所収。

本田美奈子さんはクラシカル・クロスオーヴァーの領域に属する録音をアルバム2枚強残している。それらの曲の中でも一際異彩を放っているのが「」に収録された「パッヘルベルのカノン」である。以前ラフマニノフの「ヴォカリーズ」について述べた際に最も本来のクラシックに近い姿と説明したが、この曲は逆に本来のクラシックではあり得ない、クロスオーヴァーならではの試みといえるだろう。

ここに収録された録音では伴奏なしで美奈子さんが全てのパートをヴォカリーズで歌っている。声楽はいうまでもなく純粋な単旋律楽器なので、このポリフォニックな曲の演奏を実現するためにマルチトラックの手法が用いられている。

クラシックの録音現場でもトラックのカット&ペーストは常套手段となっているようだが、 異なるテイクを通時的につなぎ合わせることは認められていても、共時的にミックスすることは(ヨーヨー・マさんの故アストル・ピアソラとの“共演”のような例外はあるが)禁じ手とされているはずだ。「本来のクラシックではあり得ない」というのはその意味である。


同じ人の声によるハーモニーというのは録音という技術があってはじめて可能になる演奏形態だが、独特の音響的効果で人々を魅了する。歴史的に見ると、最初に自分自身の声をコーラスとして用いることで成功した最初のヒット曲はパティ・ペイジさんの「テネシー・ワルツ」なのだそうだ。この手法を最も広汎に使用しているのはおそらくエンヤさんで、ヴォーカル・トラックを幾重にも塗り重ねる独自のスタイルは幅広い支持を獲得している。また最近ちあきなおみさんの「星影の小径」がTVCMで印象的に使用されたこともこの手法の効果を再認識させた。

また“同じ人”ではないが、双子姉妹のザ・ピーナッツや兄弟デュオの狩人の人気の理由の一つが肉親ゆえの同質な声によるハーモニーの独特の効果であるのは間違いないだろう。Winkの成功なども血縁関係はないが声質の酷似した二人によるハーモニーに起因するものと見ることができそうだ。

このように同じ(似た)声によるハーモニーというものは異次元空間に浮遊するような独特の感覚を生み出し、現代の音楽界では頻繁に利用されるが、全曲をアカペラでこの手法だけで演奏した録音というのは極めて珍しいと思う。このような意欲的な挑戦にさりげなく取り組んでみせるあたりは実力派歌手美奈子さんの真骨頂といえるだろう。


クラシックの器楽曲を歌曲に編曲して歌うということ自体は以前から広く行われており、最近とみに盛んだが、この「カノン」のように本質的にポリフォニックな楽曲の声楽のみによる演奏というのもあまり例がないはずだ。スイングル・シンガーズによるスキャット版というのがあるらしいが、私は残念ながら聴いたことがない。私が直接知っているのは女性5人によるアカペラ・コーラス・グループのアンサンブル・プラネタによるものである(アルバム「愛のロマンス」に収録)。

こちらはヴォカリーズではなくメンバーによるイタリア語の歌詞をつけて歌われている。編曲は原曲にかなり近い構成で、精緻で完成されたアンサンブルを聴かせて実に見事な出来映えである。これに比べると美奈子さんによるヴァージョンは原曲よりも短く切り詰められているほか声部も一部省略されており、その点は少し残念である。ただ、通奏低音まで含めて全てのパートを自ら歌った“一人ポリフォニー”の効果は比類がなく、この手法の幻惑的な効果を存分に楽しませてくれるものである。これが美奈子さんの3オクターヴ近い広い声域があってはじめて可能になる試みであるのはいうまでもない。

唱法について注目すると、美奈子さんは普段の歌唱では情感を込めた繊細な歌い回しを持ち味とする歌手だが、ここでは濃密な表情付けを避けてすっきりとした味わいの歌を聴かせているのが特徴である。こぶし、ルバート、ポルタメントといった美奈子さんが楽曲に繊細なニュアンスを付け加えるために多用している技法は影をひそめている。ヴィブラートを抑えているのも見逃すことができない。美奈子さんは通常の歌唱では丁寧にヴィブラートを織り込んでつやのある歌声を聴かせているが、ここでは主旋律となるパートや長めの音符で控え目に音高を揺るがせているほかは平坦な歌唱を通している。

これは一つには楽曲自体が均整のとれた構築美を持ち味とするものであり、濃厚なロマンを楽しませるタイプの作品ではないことによるのだろう。そしてそれと同時に、おそらくアンサンブルとしての精度を高めようといいう意図の表れでもあるのだと思われる。上に列記したような技法は楽曲に情感を与える上では効果的だが、その分アンサンブルの精密さは損なわれてしまうのである。そのためにアンサンブル・プラネタの場合は普段からノン・ヴィブラートを通しているのだが、美奈子さんはこの録音のために通常とは異なる唱法を採用しているのである。楽曲に応じてスタイルを使い分けることができるというのは優れた適応能力の証明といっていいだろう。オペラの二重唱や三重唱などでは個々の歌唱は華麗でゴージャスでも、全体のアンサンブルとしては少しもきれいに聴こえないということも少なくないのを考えると余計にそう思う。


楽曲の完成度だけを単純に比較すればやはりアンサンブル・プラネタによるヴァージョンに一日の長があると見るのが正しい評価だろう。ただ美奈子さんは本質的にソリストであるということは考慮に入れなければならない。キャリアのほとんどをソロ歌手として過ごし、ロックバンドを組んでいた時もリードヴォーカルであった。その彼女が自分自身のクローン達と組んだ即席のアンサンブルで、アンサンブルの専門家集団によるものと十分比較の対象になり得る録音を残したというのは実は驚異的なことなのではないだろうか。

「一人ポリフォニー」というユニークなアイディアを苦心したような痕跡を残すこともなく実行してみせたこの作品は、美奈子さんの音楽的な感性の柔軟さの証左として記念すべき録音といっていいだろう。原曲のもつ愉悦感を声楽によって再現することに成功した、愛すべき作品である。

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パッヘルベル 「カノン ニ長調」
原曲についてのsergeiによる解説
記 2006.08.06
改訂 2006.08.21

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