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「私を泣かせて下さい」

作詞:岩谷時子 作曲:ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル 編曲:井上鑑
アルバム「AVE MARIA」COCQ-83633(2003.05.21)所収。

本田美奈子さんのソプラノ歌手としてのデビュー・アルバム「AVE MARIA」の収録曲の中で、とりわけ美しい旋律が印象的なものの一つがゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作曲の「私を泣かせて下さい」である。原曲はオペラ『リナルド』のアリアで、「涙の流れるままに」などのタイトルでも知られている。

ヘンデルは本来はオペラ作曲家として名をなした人なのだが、今日ではオペラ作品が上演されることはあまり多くなく、この「私を泣かせて下さい」や『セルセ』の「オンブラ・マイ・フ」などのアリアが単独で演奏されることが多いというのが現状である。これはおそらく彼のオペラ作品の筋立てが現代の感覚では荒唐無稽に過ぎるということに起因するのだろう。特にこの『リナルド』は十字軍に題材を採っているということからも、上演には困難さが伴うのではないかと思う。しかしそうはいってもこの「私を泣かせて下さい」にしても「オンブラ・マイ・フ」にしても旋律はまさに極上の美しさで、この二曲のアリアだけからでもこの作曲家の天分を窺うことができる。


この現代性に乏しい劇のテクストを元に日本語詞を作るに当たっては、岩谷時子さんも苦労をされたに違いない。元の詞の置かれているコンテクストを踏襲してはいるようだが、それよりもむしろ、私たちはこの詞から「ジュピター」における「泣きたい時には 泣きましょう」と共通したモティーフを受け取るべきなのだろう。

「自由なんか求めていない」というフレーズは「つばさ」で「自由が私には 勇気と光をくれたわ」と謳った岩谷さんには似つかわしくない言葉のようでもあり、このアリアを現代の日本語話者の心にも伝わるメッセージへと翻案することの難しさも窺われる。しかしこのフレーズから天童如浄禅師の「胡蘆藤種纏胡蘆」という言葉にも通じるような深い意味合いを読み取ることもまた十分に可能だろう。私たちに必要なのは嘆きや悲しみから“自由”になることではなく、泣きたい時にはしっかりと泣くということなのだ。私はこの詞が伝えるメッセージをそんな風に解釈している。

そして「嘆きこそは 私たちの絆なのです」というフレーズは、今となってはまさに私たちの心情を言い当てたものとなっている。美奈子さんにもうこの世にいないという悲しみは、美奈子さんと私たちをつなぎとめる絆なのだ。私はこの悲しみから自由になりたいなどとは決して望まないだろう。

美奈子さんのクラシック・アルバムで歌われた一連の楽曲の意義は、歴史の試練に耐えて今日まで聴き継がれてきた珠玉の名旋律を、美奈子さんの美声によって、現代の清新な感覚で聴かせてくれるというところにある。この曲はそれに加えて、今やこの世では会うことのできなくなった美奈子さんと私たちとを、強い絆で結びつけるよすがとなってくれるという意味で、大切な楽曲である。これからも何度となくこの曲を聴きながら、「私にこそあなたのために泣かせて下さい」と願い出ることになるのだろう。

記 2010.04.06

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