「ジュピター」
本田美奈子さんが歌ったクラシックの楽曲の中でとりわけ人気が高く、「アメイジング・グレイス」などと並んで代表曲の一つのように扱われているのが「ジュピター」である。原曲はイギリスの作曲家、グスターヴ・ホルストの組曲「惑星」の第4曲「木星、快楽をもたらす者」のアンダンテ・マエストーソの主題である。
この主題はホルスト作品の中で、というよりもクラシック音楽の旋律の中でも特に人気の高い旋律で、イギリス人にとってはエルガーの「威風堂々」第1番の中間部の旋律と第二の国歌の座を争うような存在でもあるようだ。この旋律は1921年に「I vow to thee, my country」のタイトルによる歌曲編曲版が発表されて以来、これまでに様々な形で歌曲として歌われてきた。私が最初にこの旋律に親しんだのも1991年にイングランドを中心とした地域で開催された第2回ラグビー・ワールドカップで「World in Union」のタイトルで大会の公式テーマ曲に採用された際のことだった。
日本ではこれまでに遊佐未森さんや平原綾香さんもこの旋律を元にした作品を発表している。美奈子さんが歌っているのは岩谷時子さんの歌詞によるヴァージョンである(時系列的には美奈子さんの「ジュピター」は遊佐さんの後、平原さんの前に位置する)。いい機会なのでこれらの聴き比べをしてみたいところではあるが、あいにく音源の持ち合わせがないので代わりに、と言っては何だがシャルロット・チャーチさんのものと比較するところから話を始めてみる。
シャルロット・チャーチさんは12歳の時に発表したデビュー・アルバム「Voice of an Angel」で上記の「I vow to thee, my country」を歌っている。歌詞のことは別にして、美奈子さんの「ジュピター」と最も大きく異なっているのはシャルロットさんのものは原曲と同じ三拍子なのに対し、美奈子さんの方は四拍子に編曲されていることである。このことで思い出すのはJ. S. バッハの作と伝えられてきた「メヌエット ト長調」(現在はクリスティアン・ペツォルトの作というのが定説になっているらしい)を原曲とする「ラヴァーズ・コンチェルト」が四拍子で歌われたことである。最近知った例でいうと、「ロンドンデリーの歌」も元々は三拍子の器楽曲だったのだそうだ。
拍節というのは本来楽曲を構成する重要な要素で、特にメヌエットのような舞曲にとって三拍子のリズムは本質的である。従って原曲と違う編成に編曲される場合でも普通は拍子が変更されるということはあまりないはずだが、歌への編曲の場合にはこのように拍子の変更が行われ、しかもそれが違和感なく受け容れられているということは、同じ旋律でも器楽曲として演奏するのと歌として歌うのでは自然な拍節感に違いがあるということなのだろうか。最近ちょっとした偶然で久しぶりに「World in Union」を聴く機会があったのだが、これもやはり四拍子の編曲だった。私が美奈子さんのヴァージョンに違和感を感じないのは、原曲より先に「World in Union」の方を聴いてなじんでいたせいかも知れない。
シャルロットさんによる「I vow to thee, my country」は、当時の彼女の力量のせいもあるかと思うが、原曲通りのリズムは歌うにはやや窮屈そうで、ややのびやかさに欠ける嫌いがある。やはりこのメロディーは歌う際には四拍子で歌った方が自然に聴こえるのかも知れない。そのほか彼女の歌唱はメロディーの力強さに見合うだけの迫力がなく、情感のこめ方も物足りない気がする。このあたりはやはり美奈子さんとは比べものにならない。それでもこれが録音当時わずか12歳の少女によるものであることを考えれば奇跡的なレベルと言うべきだろう。現在は歌手としてのキャリアは頓挫した形になってしまっているようだが、せっかくの素晴らしい才能なのでまたいい歌を聴かせて欲しいところだ。このアルバムに収録されているアンドルー・ロイド・ウェバーさんの「Pie Jesu」などはとても素晴らしいだけになおさらそう思う。
話を美奈子さんに戻すと、美奈子さんはこの歌をクラシック・アルバムとしてのデビュー作「AVE MARIA」に収録した後、シングル「新世界」のカップリングとして収録するために新たに録音し直している。この歌は美奈子さん自身にとっても特別な思い入れのある作品なのだろう。プロデューサーの岡野博行さんによるとラフマニノフの「ヴォカリーズ」では「テイクによって驚くほど様々な表情が生まれた」とのことだが、この「ジュピター」に関しては確固とした自身の解釈を築き上げていたようで、両者を比較しても特筆すべきほどの解釈やニュアンスの違いは聴き取ることができない。ただ先入観のせいもあるだろうが、ステージで歌う経験も積んだ分だけ後から録音したもののほうがより確信を以て歌っているようにも感じられる。
この「惑星」の第4曲の原題は「Jupiter, the Bringer of Jollity」で、“jollity”は辞書を引くと「陽気さ」といったような意味が出てくる。これを“快楽”と訳すのが妥当なことなのかよくわからないが、いずれにしてもこの曲が生の喜びを主題としているのは間違いのないところであり、岩谷さんの歌詞もそうした線に沿って作られている。「みんな手をつないで生きて行こう」というのがおそらく岩谷さんの伝えようとした究極のメッセージで、美奈子さんの歌唱もそれに応える力強いものである。ただそのような歌が「あたしに 涙ふかせて/泣きたい時には 泣きましょう」というやさしい言葉で始まるのが味わい深いところで、こうしたバランス感覚はさすがに超一流の作詞家だとうならされる。喜びを主題にした歌なのに「かなしみ知らない人は いない」という認識がその底流にあるところがこの歌をより訴求力の強いものにしているのだろう。入院中に寄せたメッセージの中で「泣きたい時には 泣きましょう」というフレーズに言及しているように、美奈子さん自身もこの詞から大きな励ましを受け取ってきたのだと思われる。
何といっても美奈子さんに「あたしに 涙ふかせて」と語りかけられるのを聴くのはファンとして大きな喜びであり慰めである。入院直前の「Act Against AIDS」での鬼気迫る熱唱や、入院中にこの詞を思い浮かべながら泣いていたというエピソードを思い起こしつつ聴いていきたい作品である。
謝辞
この稿を執筆するにあたり以下のページを参考にさせていただきました。ここに記してお礼申し上げます。ありがとうございました。
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