「June」
季節は今一年のうちで最もさわやかで過ごしやすい初夏で、吹き渡る風が気持ちいいが、もう間もなく梅雨に入ることだろう。本田美奈子さんはこの雨の多い季節をイメージして作られたと思われる「June」という曲を残している。
しとしとと雨の降る中失った恋を嘆いて咽び泣くような曲で、歌のヒロインの悲しみが聴く人の心にじんわりとしみてくる名品である。こうした曲での迫真の表現力は美奈子さんの真骨頂といえるだろう。収録されたアルバム「晴れ ときどき くもり」をプロデュースした牧田和男氏によると、美奈子さんは泣きながらこの曲を歌っていたそうである。注意して聴けばそのことがわかる、とのことなのだけど、残念ながら私には繰り返し聴いても音だけから涙の痕跡を聴き取ることはできなかった。それでも美奈子さんが歌のヒロインに成り切って嗚咽するような調子で歌っているということは十分に伝わって来る。発声は全編ファルセットで、それが女性の悲しみ、儚さをいやが上にもかき立てている。
牧田氏によると、美奈子さんは山梨鐐平氏によるこの曲を大変気に入ったが、山梨氏から自分で詞を書いたら、と薦められると無理だと難色を示したという。すでに曲を好きになってしまっていたのでそれに乗せる言葉を選べなかったようだ。双方から相談を受けた牧田氏は美奈子さんには曲から受けた心象を山梨さんに話すようすすめ、山梨さんには美奈子さんからよく取材した上で最後は自分でまとめて欲しいと依頼した。それを受けて二人が電話で夜通し話し合った末に詞が完成したそうだ。「Wordsインスピレーション:本田美奈子」のクレジットは牧田さんと山梨さんが本人には内緒で付け加えたとのことである。
山梨氏とはこの後に「impressions」でもコラボレートが実現しており、山梨氏の深い憂愁に彩られた叙情的なメロディーは美奈子さんの心に深く響いていたものと思われる。
この曲について特筆すべきは、中西俊博氏の印象的なヴァイオリンがフィーチャーされており、楽曲に絶妙の興趣を添えていることである。それはこのパートなくしては楽曲自体が成立しなかったのではないかと思われるほどだ。このすすり泣くようなヴァイオリンの音色と装飾的でありながらも心情のこもった歌い回しは中西氏ならではのものであり、そのオリジナリティーあふれる音楽性には強く魅了される。
すでに何度か書いてきたけど、こうした涙を誘うような悲しい曲調は私にとって最も親しみを覚える音楽である。山梨氏による愁いを帯びたメロディーは美奈子さんの美しいファルセットや中西氏のヴァイオリンの音色と相俟って、香り立つような豊かな時を与えてくれる。美奈子さんの数あるレパートリーの中でも最も安らぎの感じられる楽曲の一つであり、今後も大切に聴いていきたい。
謝辞
歌詞が制作される過程やクレジットについての情報は牧田和男さんにご教示いただきました。ここに記してお礼申し上げます。ありがとうございました。
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