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「impressions」

作曲:山梨鐐平 編曲:田代修二
シングル「Shining eyes」(1996.07.21)所収。現行のCDでは「I LOVE YOU」MJCD-20054(2006.03.29)に収録されている。

本田美奈子さんはマーキュリー・ミュージックエンタテインメントから「JUNCTION」と「晴れ ときどき くもり」のアルバム2枚をリリースした後、バンダイ・ミュージックエンタテインメント、マーベラスエンターテイメントと所属レコード会社を移っている。この二社(バンダイからはシングル「Shining eyes」一枚をリリースしたのみだが)には合わせて七年間在籍し、その間にリリースされた音源は全て今年3月に発売されたアルバム「I LOVE YOU」に収められている。

この七年間は美奈子さんにとって多くのミュージカルに出演し高い評価を得ていた時期で、歌手として充実した日々を過ごしていたとみていいだろう。しかしこの間にリリースされた音源がわずかにアルバム一枚分しかないというのは、ミュージカル女優としての活躍に比してレコーディングアーティストとしては極めて苦しい状況に立たされていた証拠ともいえる。デビュー15周年を記念して発売されたのが(アルバムではなく)マキシシングル(3曲収録の「Honey」)でしかなかったのはその象徴である。

中身を見てみても、アニメとゲームの挿入歌がその多くを占めている。アニメソングは子供好きだった美奈子さんにとって相応しい仕事だったと見ることができるが、ゲーム関連の歌となると、本田美奈子ともあろう人がなぜこのようなことに手を染めなければならなかったのか、と少し腹立たしい気分にもなる。この時期にもっと理解あるレコード制作者に恵まれていれば多くの名曲が生み出されていたはずだと思うと悔やまれてならない。

ミュージカルというのはもちろんこのジャンル固有のファンも多いけれど、一般の音楽ファンからすると死角に入ってしまいがちな領域である。私自身、美奈子さんの動静はずっと気になっていたにもかかわらず「AVE MARIA」の発売まで満足な情報も得られずにいたのはそのためでもある。美奈子さんの歌手としての力量が生前十分に認知されなかった原因の一つはこの時期のレコーディングの不作にあるとみて間違いないだろう。「AVE MARIA」の制作スタッフとの顔合せの席で美奈子さんが「私はこのアルバムに命を懸けています」と語ったと伝えられているが、こうした事情を勘案すればその思いの切実さが少し理解できる気がする。


そんな環境にある中で完成にこぎつけていた未発表の音源を集めたアルバム「優しい世界」が今日発売になった。初回限定版に付属のプライヴェート映像を収録したDVDでBGMとして流れているのが1996年7月21日にバンダイからリリースされた「impressions」である。

シングル「Shining eyes」のカップリングとして収録されたこの曲は、実際にはマーキュリー在籍時に牧田和男さんのプロデュースにより制作されていた音源である。それだけに「I LOVE YOU」収録の楽曲の中では一際異彩を放つ作品である。歌詞がなく母音のみで「uuu...」と歌われているが、ポップスの世界では“ヴォカリーズ”という用語が一般的でないようで、「I LOVE YOU」のライナーノートには「スキャット:本田美奈子」と記載されている。

私がとりわけこの曲に心惹かれ注目するのは、後のソプラノアルバムにおけるラフマニノフの「ヴォカリーズ」や「パッヘルベルのカノン」を予感させるものとなっているからである。歌詞がなくヴォカリーズによって歌われていることに加えて、大まかにいえば曲調の上で「ヴォカリーズ」を連想させ、構成には「カノン」と共通するものがあるのだ。


この曲は愁いを帯びた情緒たっぷりの旋律が二度繰り返された後、やや活気のあるリズムで切迫した盛り上がりを形成し、ギターを中心とした間奏を挟んでもう一度最初の主題が歌われる、という構成になっている。

曲調は終始一貫して深い憂愁を帯びたロマンティックなもので、どことなく「ヴォカリーズ」や「ソルヴェイグの歌」を思わせる。美奈子さんの歌というと一般的には「つばさ」や「ジュピター」など力強さを感じさせるものに人気があるようだけど、私自身はむしろこうした聴いていてしみじみと泣けてくるような曲調のものに一番の親しみを覚える。この「impressions」も特にお気に入りの一曲である。

作曲の山梨鐐平さんからはすでにアルバム「晴れ ときどき くもり」で「私たちのTreasure」と「June」の2曲の提供を受けており、互いに気心の知れた間柄だったのだろう。牧田和男さんの証言によると「June」の収録の際は泣きながら歌っていたそうで、この「impressions」でも曲の世界に自ら深く没入したロマンティックな歌唱を聴かせてくれている。


そして特筆すべきなのは冒頭の主題を二度目に繰り返すところからマルチトラックの手法により美奈子さん自身の声による対位旋律が加わることである。これはアカペラで自身の声だけによって最も手のこんだポリフォニーの形式であるカノンを実現した「パッヘルベルのカノン」の前触れをなすものとも見ることもできる。曲調は「カノン」とは大きく異なるが、盛り上がりの部分のリズムには「カノン」を彷彿とさせるものがある。

「impressions」は「カノン」ほど精緻な構造ではなく、比較的シンプルな2声の対位法ではあるが、比類のない効果で聴く人を魅了する。均整のとれた構築美を本質とする「カノン」では濃密な表情付けを避けたやや淡泊な歌い回しをしているが、ここではロマンティックな曲調に合わせて情緒たっぷりの歌を聴かせている。二つの声部それぞれが情感をこめて自己主張をしながら、それが一つに溶け合って絶妙なハーモニーを形成する様は圧巻である。評論家の宇野功芳氏がマタチッチによるブルックナーの交響曲第7番の演奏について「対旋律のすみずみまでカンタービレが効いている」と評しているのだけど、そんな言葉を思い出したくなる、見事な歌唱である。


シングルのカップリング曲(昔風にいうと“B面”)というのは歌手にとってはセールスプロモーション的な制約からは比較的自由に、自分のやりたいことに思い切って挑戦できる貴重な場なのだと思う。「この歌をfor you」がまさにそうだったが、この「impressions」も美奈子さんの創意がダイレクトに伝わってくる意欲作になっている。美奈子さんの歌心に酔いしれながら創造性にうならされる、そんな贅沢な時間を与えてくれる名品である。

関連ページ:sergeiによる曲を聴いた感想

記 2006.12.06
改訂 2006.12.26
改訂 2007.09.03

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