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「踊りあかそう」

日本語詞:岩谷時子 作詞:アラン・ジェイ・ラーナー 作曲:フレデリック・ロウ 編曲:井上鑑
アルバム「心を込めて…」COCQ-84139(2006.04.20)所収。

本田美奈子さんはデビュー20周年となる2005年を迎えるに当たり、その記念となるミュージカル・アルバムの制作の準備を進めていた。その矢先に白血病に罹患していることが判明してこのアルバムは幻となってしまったのだが、その中でも録音の完成にこぎつけていた貴重なトラックの一つが『マイ・フェア・レディ』のナンバー、「踊りあかそう」である。

『マイ・フェア・レディ』は周知の通り、ロンドン下町の花売り娘イライザが言語学者ヒギンズ教授によってコックニーと呼ばれる下町特有の訛りを矯正され、淑女へと変身していく物語である。タイトルはコックニーでは“Mayfair”という地名が“my fair”と同じ発音になることをもじっている。このミュージカルはジョージ・バーナード・ショーの戯曲、『ピグマリオン』を原作としている。この作品の筋立ての背景を理解するためには、イギリスの言語と社会をめぐる事情についての知識が不可欠となる。

イギリスでは英語のほかにウェールズ、スコットランド、北アイルランドの各地でケルト系の言語が話されているが、英語だけに限っても多様な方言が存在する。話す言葉のイントネーションから、その人の出身地域と階級がおおよそわかるともいわれている。しかし地域のことはともかく、話す言葉から階級が判別してしまうというのは、この国の言語の多様性がもたらす、いささか困った側面である。

方言というと私たちはまず地域方言のことを念頭に浮かべがちだが、話者の社会階層に依存する社会方言も、見落としてはならない重要な要素である。イギリスが階級社会であることはよく知られているが、そのことは言語事情にもそのまま反映されているのである。社会主義者のバーナード・ショーは、このような言語の差異をなくしてしまえば階級のない平等な社会が実現できるのではないかと考え、この戯曲を構想したといわれている。

しかし、平等な社会への志向そのものはともかく、人が生まれ育った環境で自然に習得した言語を言語学者によって“矯正”されたものに置き換えることによって画一的な平等を実現しようと考えるのは、あまりにも安直に過ぎる。文化の多様性の価値がショーの活躍した当時より遥かに尊重されている現在では、この構想はそのままでは支持され得ないだろう。日本でもかつて全国で行われた方言撲滅運動の愚劣さを思い浮かべる時、その思いをさらに強くする。

皮肉屋のショーはそれでもさすがにこの劇をハッピーエンドで締め括るのは自身の美学が許さないと思い定めたのだろう、最後はイライザがヒギンズ教授の元を去ってフレディと結婚する結末になっている。それがミュージカルではイライザとヒギンズが結ばれることを示唆する結末に書き換えられているのは、あまりに身も蓋もないという気がしなくもない。


いろいろと小難しいことを書き並べてしまったが、この「踊りあかそう」はそうした理屈は抜きで純粋に楽しめるチャーミングなナンバーである。美奈子さんは『マイ・フェア・レディ』に出演したことはなかったが、コンサートではこのナンバーを好んで採り入れていたという。「命をあげよう」にしても「オン・マイ・オウン」にしても、美奈子さんのレパートリーには聴き手に緊張を強いるような悲壮感ただようナンバーが多いので、こういう誰でも気楽に楽しめる曲が間奏曲的な意味合いで必要だったという面もあったのかも知れない。

このスタジオ録音でも、美奈子さんはいかにも楽しそうにのびのびとその美声を響かせている。こうした海外のミュージカル・ナンバーでも微妙なルバートやこぶし回しを駆使して粘っこく歌っているのがまた何とも美奈子さんらしいところである。編曲はいつもの井上鑑さんで、大石真理恵さんのマリンバを中心に打楽器を配した伴奏が心浮き立つような気分をいやが上にも盛り立てている。美奈子さんの最後のスタジオ録音の一つということで(もう一つは『十二夜』の「ララバイ」)実に貴重な記録でもあり、美奈子さんと一緒に朝まで踊りあかすような気分で大切に聴いていきたいナンバーである。

記 2011.09.06

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