「愛の讃歌」
よく知られているように本田美奈子さんはミュージカル『ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当した岩谷時子さんと懇意になった。岩谷さんは美奈子さんを歌手として高く評価し、美奈子さんの楽曲の作詞を多く手がけた。美奈子さんの晩年のクラシック・アルバムでも収録曲の多くは岩谷さんの作詞である。岩谷さんは彼女のことをかつてマネージャーを務めた越路吹雪さんと重ね合わせて見ていたようである。一方美奈子さんは岩谷さんを“芸能界の母”として慕い、越路さんにも強いあこがれを抱くようになった。岩谷さんは美奈子さんに大きな影響を与えた人である。
美奈子さんが白血病のため入院中、岩谷さんが銀座の路上で転倒し大怪我を負い同じ病院に入院するという出来事があった。美奈子さんはこの時無菌室から出ることができなかったため、二人はボイスレコーダーを通じて声のメッセージを贈り合い、励まし合っていた。その中で美奈子さんは岩谷さんのために歌を吹き込んでおり、その数は合計で30曲以上にも上ったという。先月25日にはその模様を特集したドキュメンタリー番組『本田美奈子.最期のボイスレター』がNHKのBSハイビジョンで放送された。番組は二人の強い絆と美奈子さんの歌への尽きることのない情熱をあますところなく伝えていた。
この二人の絆を象徴しているのが美奈子さんによる「愛の讃歌」の歌唱だろう。原曲(原題は「Hymne à l'amour」)は言わずと知れたシャンソンの名曲で、不世出のシャンソン歌手、エディット・ピアフの代表曲である。日本では岩谷時子さんの訳詞により越路吹雪さんが歌ったのが有名である。越路さんの代表曲であると同時に、岩谷さんの代表作とも言えるだろう。この歴史的な名曲を美奈子さんはアルバム「JUNCTION」でカヴァーしたほか、TV出演などでも歌っている。
『本田美奈子.最期のボイスレター』のナレーションによると、岩谷さんは長らく封印してきたこの訳詞を美奈子さんのために特別に許可したとのことだった。この詞の権利はJASRACに委託されており、使用料を払えば誰でも自由に使用できるはず(私には以前何かのTVコマーシャルで桑田佳祐さんが一部だがア・カペラで歌っていたのが印象深い)なのでこの説明の意味するところはよくわからないが、岩谷さんが美奈子さんこそ自身の代表作であるこの詞を歌い継ぐのに相応しい人だと考えていたのは間違いないだろう。
美奈子さんにとっても恩師から託されたこの歌は特別に大切なレパートリーだったはずだ。あこがれを抱くようになった越路さんの代表曲であるということもある。美奈子さんは越路さんのような表現力のある歌手になりたいと語っていた。越路さんが「あなた」と歌いかけると聴いている人はみな自分のことだと思って「はい」と返事をした、というエピソードを岩谷さんから聞かされたことをTV出演の際に話していた。そうした迫真の表現こそは美奈子さんが求めていたものだったのだろう。
しかし美奈子さんの歌う「愛の讃歌」を聴いていると、美奈子さんと越路さんはかなり違ったタイプの歌手だったような気がしてくる。私は越路さんについてはあまりよく知らないのだけど、彼女は聴く人の心に迫る表現のためには歌としての体裁を崩してしまうことも厭わなかった歌手だと見ていいだろう。一方の美奈子さんは、決して譜面通りのザッハリヒ(即物的)な歌唱に終始する歌手ではなかったけれど、どれほど興にのって譜面からはみ出した歌い方をしても歌としての体裁そのものを崩すことはなく、あくまで歌は歌として歌い通した歌手だったように思う。ここに聴く「愛の讃歌」も、越路さんの名演に親しんだ方にはあるいはあまりに素直で純朴な歌い回しで物足りなく感じられるということもあるかも知れないが、美奈子さんの歌へのまっすぐな思いが伝わる、健気で可憐な歌唱である。
美奈子さんが心の中に思い描いた、越路吹雪さんのような表現力を身につけた自身の姿とは一体どんなものだったのだろう。この歌を聴いているとそんな答えのない問いに心を奪われてしまう。
娘のようにかわいがっていた美奈子さんを喪った現在の岩谷さんの孤独と寂寥感は察するにあまりある。家族もなくホテルで一人暮しをしているという岩谷さんが、美奈子さんの面影を心に抱きつつ平穏な日々を過ごせることを祈るばかりである。
謝辞
この歌の岩谷時子さんによる日本語詞の権利についての情報は充実野菜さんにご教示いただきました。ここに記してお礼申し上げます。ありがとうございました。
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