「グリーンスリーヴス」
本田美奈子さんはアルバム「AVE MARIA」にイングランド民謡の「グリーンスリーヴス」を収録している。この曲はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』で言及されていることでも知られる、とても古くからある民謡である。
自分の元を去っていった恋人への未練を歌った曲で、“グリーンスリーヴス”(緑の袖)とはその恋人の女性が身につけていた衣服を指し、その恋人そのものの象徴として歌われている。この緑の袖という隠喩が何を意味しているのかについては諸説あってよくわかっていないらしく、その恋人の身元も高貴な身分の婦人から娼婦まで様々な説があるようだ。
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは『ウィンザーの陽気な女房たち』を元にした1928年作曲のオペラ『恋するサー・ジョン』で、この「グリーンスリーヴス」を間奏曲として用いている。この間奏曲はラルフ・グリーヴズの編曲により「グリーンスリーヴスによる幻想曲」として単独でも親しまれている。このほか先月の記事でちょっと名前を出したロック・ギタリストのジェフ・ベックさんもアルバム「トゥルース」でこの曲のギター版を披露している。このように現代に至るまで、幅広い音楽家に愛好されている名曲である。
美奈子さんがソプラノ歌手としてのデビューアルバムでこの曲を取り上げたのは、サラ・ブライトマンさんがアルバム「La Luna」でイングランド民謡の「スカーボロー・フェア」を歌っていることに影響されたのではないかと私は想像している。サラさんは美奈子さんに多大な影響を与えた人で、この「La Luna」は諸般の事情から特に美奈子さんが愛聴していたことが想定されるアルバムなのである。今あらためてこの2枚のアルバムを並べてみると、ジャケット・デザインからしてよく似ており、「AVE MARIA」が「La Luna」の強い影響下に制作されたものであることが推察される。
美奈子さんが歌っているのは岩谷時子さんによる日本語詞で、岩谷さんはこの曲に春の訪れへの喜びを歌う詞をつけている。実は私は秋に聴くのに相応しいものを、と思ってこの曲を思いついたのだが、この日本語詞が春の歌であることにいささか当惑してしまった。原詞には特に季節の限定はないが、このメロディから受ける印象を強いて季節に当て嵌めるなら、私には秋こそが最も相応しいように思われる。同じメロディでも岩谷さんと私とでは受け取り方が違っていたわけで、こうしたところも音楽というものの奥深さだと思う。
サラさんの「スカーボロー・フェア」は合唱も交えたゴージャスなアレンジで、民謡らしい素朴さは幾分失われているのだが、美奈子さんは衒いのない自然な歌唱により、この曲の民謡としての素朴な味わいをストレートに表現している。しっとりと落ち着いた調子の歌唱は岩谷さんの日本語詞の浮き立つような春の喜びとはやや異質なもので、両者が共存することで独特の世界となっているように感じられる。
なお、私の手持ちの中からこの曲のお薦めの音源をもう一つ紹介しておくと、アイルランドの女性歌手、メイヴさんが歌ったものが二枚目のアルバム「銀色の海」に日本盤ボーナス・トラックとして収録されている。こちらはデイヴィッド・アダムズさんのハープシコードとデイヴィッド・アグニューさんのリコーダーの伴奏による、まるでルネッサンス期の芸術歌曲を思わせるような格調高い歌唱で、私はこれもとても気に入っている。
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