「アヴェ・マリア」
多忙なミュージカル出演の傍らクラシックへの志向を強めていた本田美奈子さんは、プロデューサーの岡野博行氏の助力を得て2003年に念願のクラシック・アルバムの第一作「AVE MARIA」をリリースした。収録曲は100曲以上の候補の中から厳選されたそうだが、その中でも栄えあるタイトル・トラックとして収録されたのがこのジュリオ・カッチーニ(1545頃 - 1618)の「アヴェ・マリア」である。
愁いを帯びた叙情的な旋律が美しく、高貴な悲しみと密やかな祈りを感じさせるこの作品は、近年になって人気が急速に上昇し、演奏・録音される機会も極めて多くなった。「アヴェ・マリア」というと従来はシューベルトやグノーによるものが広く親しまれてきたが、今やそれに並ぶ存在になったとも言えそうな勢いである。
この「“カッチーニの”アヴェ・マリア」として知られる作品、私は単純に埋もれていた名曲に新たに光が当てられるようになったものとばかり思っていたのだが、調べてみると事情は少し違うようだ。Wikipediaによるとこの曲は90年代以前には楽譜も録音も存在せず、現在流通している楽譜はいずれも編曲を経たもので、出典が明らかにされていないことから偽作の可能性が高いという。
なるほど、言われてみると確かに奇妙な曲である。まず曲調が私たちが普通抱いているバロック音楽のイメージから懸け離れている。優美な旋律にこめられた濃密な情感はどう見てもむしろロマン派の音楽に近い。フォーレの「夢のあとに」やラフマニノフの「ヴォカリーズ」を髣髴とさせるものがある。歌詞が「Ave Maria」だけでほとんどヴォカリーズで歌われるのもバロック時代の習慣ではあり得ないことなのだそうだ。
この曲が一般に広く知られるようになったのはカウンター・テナーのスラヴァさんが取り上げて以降と見られるが、この曲の最も古い録音はロシアのギタリスト、リュート奏者のヴラディーミル・ヴァヴィロフによるものだそうだ。彼自身は作者不詳としていたのが、いつのまにかジュリオ・カッチーニの作品として広まっていったらしい。作曲したのもヴァヴィロフ自身だろうというのが有力な見解になっているようだ。この曲の深い愁いを帯びた美しい旋律を思うと、ロシアの音楽家による作品だという説明にはなるほどと頷かされるものがある。
自分の作品を遠い過去の作曲家の名前で発表することは折角の労作を無条件にパブリック・ドメインとして提供することに等しいもので、現代の作曲家がこうしたことを行う動機には少し理解し難いものがある。絵画などの偽作と違って金銭的な利得にはつながらないはずなのだが…。名前を使われたカッチーニとしてはやはり自分の預かり知らぬところで作曲された作品によって有名になってしまったことを苦々しく思っているだろうか。
出自の問題はともかく、名曲であることに変わりはないので、音楽ファンとしてはそうした点も念頭に置きつつ純粋に音楽を楽しめばいいのだと思う。美奈子さんがこのあたりの事情をどの程度認識していたのかはわからない。CDにはカッチーニの名がクレジットされているが、ブックレットの岡野氏による曲目解説にはカッチーニにより作られたとはっきりとは記されていない。あるいはもしかすると岡野氏もある程度事情を把握していて、美奈子さんも説明を受けていたという可能性も考えられそうだ。
しかし今それよりも重要なのは美奈子さんが数ある名旋律の中からこの曲を選んでアルバムのタイトルにも起用したことの意味だろう。「命を懸けている」とまで語った、それほど強い決意を以て制作に臨んだこのアルバムにオープニングの「流声」に続く最初の曲として収録したのだから、よほどこの旋律に魅入られていたのだと想像できる。こうした愁いを帯びたゆるやかな旋律というのは私たちにふくよかな時の流れをもたらしてくれる。そんなところが新たな歌の世界を模索していた美奈子さんの心をとらえたのかも知れない。
このトラックは今年4月に発売されたベスト・アルバム「クラシカル・ベスト〜天に響く歌〜」にも収録されている。このアルバムは録音が行われた時間的な順序に従って曲が並べられているのだが、その中で「アヴェ・マリア」は二番目に置かれている。従ってこの曲はアルバム「AVE MARIA」の収録曲の中でも早い時期に録音が行われたものと思われる。
そのせいか美奈子さんの歌い回しには若干の硬さが感じられるような気がする。丁寧に楽譜をなぞるかのような歌唱からは、自分にどのような表現が可能なのかを慎重に見極めているような様子が窺われる。おそらくこの頃はまだ独自のソプラノ唱法を完璧に自分のものとするために磨きをかけている途上だったのではないだろうか。もう少し経験を積んだ後ならばもっとしなやかで闊達な歌い回しを聴かせてくれただろうと想像できる。
もちろんそうは言っても、ここでの歌唱も美奈子さんらしく心のこもったものであり、十分に魅力的である。発声自体はすでに美しく磨き抜かれており、聴く人の心にやさしく響いてくる。
井上鑑氏はこの曲にスタジオでの技術を駆使した凝った編曲を施している。私としてはもう少しシンプルでアコースティックにこだわった作りにした方がこの曲の美しいメロディーを引き立てていたのではないかという気がする。しかし刈田雅治氏による力強い響きのチェロ・パートは美奈子さんの繊細なソプラノ・ヴォイスを支え盛り立てることに成功している。
謎に包まれたこの名旋律だが、今こうして美奈子さんの歌唱で聴けるということに感謝したい思いである。ソプラノ歌手としての出発点にこの曲を選んだ美奈子さんの気持ちに思いを馳せつつ聴いていきたい。
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