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「アメイジング・グレイス」

日本語詞:岩谷時子 作詞:ジョン・ニュートン 作曲:不詳 編曲:井上鑑
アルバム「AVE MARIA」COCQ-83633(2003.05.21)所収。ミニアルバム「アメイジング・グレイス」にはスタジオ録音の音源とともにライヴ映像が収録されている。ベスト・アルバム「クラシカル・ベスト〜天に響く歌〜」COZQ-255,6(2007.04.20)にもスタジオ録音の音源が収録されているほか、入院中に病室でボイスレコーダーに録音した音源が配信限定でリリース(2008.03.24)されている。

本田美奈子さんのレパートリーの中で現在最も広く世の中に知られているのは「アメイジング・グレイス」だろう。美奈子さんの訃報が伝えられた時、多くの報道で紹介されたのはこの曲のライヴ映像だった。多くの人にとって美奈子さんの晩年の歌手活動のイメージは赤いドレスを着てこの曲を歌う姿によって形作られているとも言えるだろう。

美奈子さん自身にとってもこの曲は特別に思い入れのあるレパートリーだったらしい。入院中に同じ病院に入院してきた恩師の岩谷時子さんを励ますために最初にボイスレコーダーに吹き込んだのがこの曲であり、一時退院の際お世話になった医師や看護師のためにナース・ステーションで歌ったのも「アメイジング・グレイス」だった。

このボイスレコーダーに吹き込んだ音源は逝去後まもなくの追悼番組や先日のNHKの特集番組で紹介されたほか、2006年から一年間公共広告機構の骨髄バンク支援キャンペーンのコマーシャルでも使用された。また先月の24日からは配信限定でリリースされてもいる。


こうしたことから現在の日本では「アメイジング・グレイス」という楽曲は美奈子さんの存在と強く結びつけられているように見受けられる。実際、作詞者ジョン・ニュートンの自伝を翻訳した中澤幸夫氏は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている。こうした事態には美奈子さんのファンとしてもいささかの戸惑いを感じてしまう。美奈子さんが亡くなるまで日本人はこの歌を知らなかったのか、というのも腑に落ちないところで、もしそうならそれは少し悲しいことのような気がする。

この歌は元々はジョン・ニュートン作詞の賛美歌で、奴隷運搬船の船長として航海中に嵐に逢いながらも奇跡的に難を逃れた体験を元に神への感謝の思いを述べた歌である。メロディーの由来についてはよくわかっていないようで、一説にはアイルランドやスコットランドの民謡に起源を持つとも言われている。その後詳細な経緯は不明だがこの歌はアメリカに渡って特に黒人たちの間で広く親しまれるようになった。従って黒人霊歌やゴスペルの一つと見做すこともできるだろう。奴隷貿易という人類史上最悪の蛮行から生まれ、その後に生きる人々の心の支えとなったこの崇高な芸術作品がもっとそれ自体の価値を認識されるようになって欲しいものである。


美奈子さんはこの歌を岩谷時子さんの日本語詞の前後に原詞の1番の歌詞を配して歌っている。岩谷さんの詞は罪深い奴隷貿易に関わったことへの悔悟という原詞のモティーフにはとらわれない、かなり自由な意訳になっている。このあたりも岩谷さん随分と大胆なことをなさったな、と思うところで、この歌を今日まで歌い継いできた人たちが聴いたらどう感じるのだろうか、と少し気にかかる。もちろんパブリック・ドメインなので何をしても法的には全く問題ないのだが、万人に自由な利用が認められている人類共通の文化遺産であるからこそこの歌が背負ってきた歴史への敬虔な態度が望まれるはずだ。

しかしそれはともかくとしてでき上がった詞は幾多の曲折を経ながらも歌一筋に生きてきた美奈子さん自身の心情を物語っているようで、やはりさすがに美奈子さんの最大の理解者である岩谷さんならではの素晴らしさである。美奈子さんの歌唱が広く親しまれているのはこの詞の力によるところも大きいだろう。


「アメイジング・グレイス」はそもそもプロの歌手のためではなく一般のキリスト教徒が歌うために作られた歌なので技術的には特に難しいところはない。音域は一オクターブしかなく、しかも五音音階によるメロディーなので都合六つの音しか使われていない。その意味では歌にこめられた思いを真っ直ぐに聴く人の心に伝えることのできる美奈子さんの真価が最も発揮されたレパートリーの一つでもあると思う。

クラシックの楽曲を歌った歌手として技術的なことだけを言えば美奈子さんは必ずしも傑出した存在ではなかったかも知れない。例えば音大の声楽科あたりを探せばもっと正確な音程で声量豊かに歌える人を見つけるのは難しくないだろう。しかしこのどこと言って難しいところのない「アメイジング・グレイス」を歌ってこれほどまで人の心を魅きつけることのできた歌手はこれまで日本にはいなかったのだ。そこにはかつてアイドル歌手として、またロックバンドのリーダーとして同時代の若者たちの息吹を肌で感じながら歌に取り組んできた経験が生かされていると見ることもできるだろう。それは主として古典的な名曲を再現するための技術の習得に明け暮れてきた声楽家たちにはない強みなのだと思う。

この歌をゴスペルとして見れば、全てを受け容れて包容する大地の温もりを感じさせるような朗々とした歌い方が相応しいのだろうが、美奈子さんはここでもその他の楽曲と同様に繊細で叙情的な歌唱を聴かせている。これはこの歌のメロディーのルーツとも目されているケルトの民謡により近い歌唱と言えるだろうか。同じ美声でも例えばヘイリーさんの歌が純粋で無垢な魂を感じさせるのに対し、美奈子さんの歌には清濁含めた人生のあらゆる種類の喜怒哀楽から抽出された感情の結晶のような美しさを見出すことができる。それはどんな時にも歌とともに歩み歳月を過ごしてきた美奈子さんだからこそ表現できた美しさなのだ。


かくして重過ぎるほどの歴史的背景を背負ったこの歌は日本に於て本田美奈子という一人の歌手の人生を歌った楽曲として受容されるに至っている。このことは外国から輸入したものを自己流にアレンジして採り入れることを得意とする日本人の特性がよく表れているとも言えるだろう。しかしいずれにしても美奈子さんが自身の人生の感慨をこめて歌ったその歌は、たとえその表層がどのように移り変わろうとも人類は常に歌から最も大きな励ましや安らぎを得てきたという真実の一つの証として、記念すべき歌唱である。赤いドレスを着て歌うあまりにも可憐なその姿とともにいつまでも記憶にとどめたい。

記 2008.04.06

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