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ラフマニノフ 六手のピアノのための「ロマンス」

セルゲイ・ラフマニノフは1891年、18才の時に六手のピアノのための「ロマンス」という作品を作曲している。コンサート用というより家庭で楽しむための作品であり、若い時の習作の域を出ないものであるため今日あまり顧みられることのない曲である。しかしこの曲はラフマニノフの音楽を理解する上で極めて重要な作品なのである。ここではあまり知られていないこの愛らしいピアノ曲について解説してみたいと思う。


ラフマニノフ家は元々は大地主貴族であったが、作曲家セルゲイ・ヴァシーリエヴィチが生まれた頃にはかなり没落しており、彼の幼少時にはついに破産して両親が別居するという事態に見舞われた。そんな時に困窮する彼を親身になって助けたのが父方の伯母の嫁ぎ先である サーチン家の人々であった。後に交響曲第1番初演の失敗により彼が作曲の意欲を失ってしまった時、ダーリ博士の診療を受けることをすすめたのもサーチン家と懇意の医師である。

1890年17才の夏に彼は初めてサーチン家の人々と共にこの家の所領イワノフカを訪れ、楽しい一時を過ごした。以来毎年の夏をここで過ごすのは彼の習慣となった。この時一夏を一緒に過ごしたのがサーチン家の親類にあたるスカローン家の人々だった。彼はこの家のナターリヤリュドミーラヴェーラの三姉妹と親しくなり、ナターリヤの作曲したワルツの主題を元にした「ワルツ」、翌年には「ロマンス」という六手のピアノのための小品を作曲している。三姉妹のためなので、六手ピアノという特殊な編成になっている。特に末の 妹のヴェーラとの間には淡い恋愛感情が芽生えたといわれている。なお時々CDのライナーなどで三姉妹の長姉ナターリヤ・スカローンと、後に彼の妻となるサーチン家の長女ナターリヤ・サーチナを混同した記述を見かけるが惑わされないように注意されたい。


「ロマンス」はアルペジオ(分散和音)による序奏にはじまり、主部では若き作曲家の令嬢達への優しい眼差しが感じられるロマンティックな主題がソプラノで歌われ、最後もやはり名残りを惜しむようにノスタルジックな感傷に満ちたコーダで締めくくられる。若き日の小品とはいえラフマニノフならではのロマンティシズムに満ちた逸品である。

この小品が彼の音楽を理解する上で重要な理由は一聴すればおわかりいただけると思う。この冒頭のアルペジオは後に彼の最高傑作であるピアノ協奏曲第2番 Op.18の第2楽章で用いられているのだ。


よく知られているように、ラフマニノフは野心作である1897年に行われた交響曲第1番の初演が失敗に終わったことにより神経衰弱に陥り、創作意欲を失ってしまっていた。そしてこの時期には初恋の人であるヴェーラが別の男性に嫁いでいくという出来事にも見舞われていた。失意の作曲家を支えたのは催眠療法を採り入れていた精神科医ニコライ・ダーリであった。ダーリはアマチュアの音楽家でもあり、音楽への造詣も深いことから博士の診療は大いに作曲家を勇気づけることとなり、創作意欲を回復した彼は新しいピアノ協奏曲の創作に取り組み始めたのである。

このピアノ協奏曲第2番は第1楽章が最後に作曲されたことが知られている。はじめに第2楽章と第3楽章が作曲され、全曲の完成前に二つの楽章が1900年12月2日モスクワ交響楽の夕べで演奏されている。

第2楽章はオーケストラによるやや神秘的な導入部を経て調性をハ短調からホ長調へと移した後、ピアノがアルペジオを奏してはじめられるのだが、このアルペジオは六手のピアノのための「ロマンス」の冒頭から採られているのだ。したがって一見したところ初期の習作にしか見えない「ロマンス」ではあるが、この記念碑的な協奏曲を構想する上での最初の着想を与えたのがこの作品であったとも考えられるのである。

「ロマンス」ではアルペジオは単なる序奏で主部は序奏とはかかわりなく進められていくのだが、この楽章ではアルペジオがそのまま続きそれに乗せてフルートとクラリネットが主題を歌い継いでいく。この主題はラフマニノフが残した数多くの美しい旋律の中でも最も優れたものの一つだが、こうした経緯を考えると旋律にアルペジオがつけられたのではなく、アルペジオに合わせて旋律がつくられたのではないかと考えられる。このあたりの事情はグノーの「アヴェ・マリア」と少し似ているような気がする。


そしてこの「ロマンス」が重要な作品であることを示す事実はこれだけではなかった。ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番と並行して二台のピアノのための「組曲 第2番 Op.17」という作品を作曲している。ピアノの名技性と交響的な響きの効果の両面を追求したこの作品は1900年から翌年にかけて作曲され、今日ラフマニノフの最高傑作の一つに数えられ、高く評価される名曲である。

私はある時この組曲を聴いていて、第3曲「ロマンス」の終盤に六手のピアノのための「ロマンス」のコーダが引用されていることに気がついた。「組曲第2番」は手許にあるCDを比較してみると演奏によってテンポ設定がかなり違うようだが、現在日本で最も広く流通していると思われるマルタ・アルゲリッチさんとアレクサンドル・ラビノヴィッチさんによる録音では第3曲の5分12秒から40秒ほどの間、六手のピアノのための「ロマンス」の方はヴラディーミル・アシュケナージさんがご家族と共演した録音でいうと3分10秒以降である。お聴きになればこの二つの部分の曲想がほとんど一致しているのがおわかりいただけるだろう。これほどの一致は決して偶然類似した音型になったというようなものではなく、意識的に自作から引用したとみて間違いないと思う。この組曲中の「ロマンス」はラフマニノフならではの優美で叙情的な旋律が美しい愛すべき作品だが、その着想に六手のピアノのための「ロマンス」が関わっていたというのは驚きだった。


ダーリ博士の助力を得ながら作曲への意欲を取り戻すべく自己を見つめ直していた時、ラフマニノフの胸のうちに去来したのはおそらくスカローン三姉妹と過ごしたイワノフカの夏の思い出だったのだろう。序奏とコーダがともにこの時期の作品に引用されていたという事実はそのことを物語っている。この両作品には作曲家の初恋の想い出がこめられていると思って聴けば、また格別の感慨を以て鑑賞できるような気がする。

記 2006.09.09
記 2008.04.22

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