ショパン 「ノクターン 第20番 嬰ハ短調」 (遺作)
クラシックの数ある名曲の中で、初心者にもためらいなく薦めることのできる作品は何だろうか、ということを時々考える。これはなかなか興味深い問題だが、ショパンのノクターンはその最右翼に属する作品の一つといえるのではないだろうか。
ロマン的性格のピアノ小品に「ノクターン」というタイトルを用いたのはアイルランド出身の作曲家・ピアニスト、ジョン・フィールド(1782-1837)が最初である。ショパンは独自の情趣を盛り込んだこのジャンルの作品を21曲残している。作曲年代は初期から晩年にわたり、彼がこのジャンルに生涯を通じて強い関心を持ち続けていたことが窺われる。曲の内容については通常いわれる「サロン風の甘美さに満ちたロマンティックな小曲」という評価がよく本質を表している。いかにも貴族のサロンで演奏されるに相応しい、耳に心地よい極上の音楽である。
これらの曲について少し気になるのは、ショパンの繊細優美な音楽性が最上の形で表現された名曲が揃っている中で、どういうわけか第2番変ホ長調だけが突出して有名であるといことだ。第2番が優れた作品であるのは間違いないが、この曲とその他の作品の出来映えに際立った差があるわけではない。ショパンの「ノクターン」といえば第2番のことだと思っている方にはぜひほかの作品も聴いていただきたいと思う。ショパンにはまだまだ多くの素晴らしい作品があるということに瞠目されることだろう。
ただ全般に後期の作品にはおそらく彼の健康状態の影響もあって内省的で沈鬱な表情が垣間見られることもあり、初期の作品に見られる夢見るような美しさにやや欠けるところがあるとはいえるかも知れない。私のお気に入りの作品をあえていくつかに絞るとすれば、第1番、第8番、そして遺作の第20番嬰ハ短調あたりだろうか。
第20番嬰ハ短調はショパンの死後に出版されたが作曲されたのは1830年ウィーンに着いて間もなくの頃で、作品9の3曲とほぼ同じかあるいは寧ろやや早い時期の作品である。主部/再現部は深い憂愁を帯びたロマンティックな旋律が聴く者の心を打つ。中間部にはピアノ協奏曲第2番の終楽章の第1主題と第1楽章の第1主題の素材が組み合わされて現れる。
ショパンの二曲の協奏曲は彼がひそかに思いを寄せていたワルシャワ音楽院の同窓のソプラノ歌手、コンスタンティア・グワドコフスカとの関りが深いことが知られている。特に第2番(実際には第1番よりも先に作曲された)の第2楽章はコンスタンティアへの思いを表現したものであることを友人、ティトゥス・ヴォイチェホフスキに告白している。
結局その思いを告げることのないまま故国を離れたショパンだが、ウィーンに着いて間もなく作曲されたこの曲にはコンスタンティアへの追憶が込められているのかも知れない。生前出版されることがなかったのもこの曲にはあまりにも生々しい彼の個人的な感情が盛り込まれていたためとも考えられる。
なおこの曲ははじめに1875年に出版された際には「アダージョ」と指定されていたが、後にブラームスによって「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」と改められた。いささか牽強付会の説ではあるが、あるいはクララへのひそかな思慕とともに生きたブラームスにとってこの曲は特に共感しやすい作品であったのかも知れない。
20世紀の名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテインはこの曲のヴァイオリンのための編曲を残している。またこの曲はナチスの収容所から奇跡の生還を遂げたことで知られるピアニスト・作曲家のヴワディスワフ・シュピルマンの愛奏曲だったようで、映画「戦場のピアニスト(原題 “The Pianist”)」でも効果的に用いられていた。
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