「この歌をfor you」再び
2006年9月 6日
「この歌をfor you」についてはすでに取り上げたのだけど、その後のファンサイトでの議論や新情報を踏まえてもう一度語っておきたい。
この歌の特徴の一つは過剰なまでのファルセットの使用にある。冒頭から高音域での美しいファルセットで魅了してくれる。アルバム「晴れ ときどき くもり」にはこのほかにも 「June」などファルセット主体の楽曲が収められているから、このアルバムのコンセプトの一つだったのではないかと思わせられる。
『ミス・サイゴン』でキム役を本田美奈子さんとダブルキャストで演じた入絵加奈子さんの証言によると、美奈子さんは以前は裏声があまり得意じゃない
と語っていたそうだ。これがいつのことか正確にはわからないが、入絵さんが言うのだからおそらく『ミス・サイゴン』の上演当時、若しくはその準備のためのスクールに通っていた頃のことだろう。
その裏声が得意じゃな
かった美奈子さんがこうした楽曲を歌ったということは、丁度このアルバム「晴れ ときどき くもり」の頃にファルセットを自身の表現のスタイルに積極的に活用する手応えをつかんだのではないだろうか。そしてそれが後年のソプラノ唱法の習得へとつながっていったものと思われる。その意味ではこの歌は美奈子さんの歌手としてのキャリアにとって一つの転機になったともいえそうだ。私達は後年のクラシカル・クロスオーヴァーでの活躍を知っているのでかつて裏声が得意じゃな
かったということには意外な感があるが、美奈子さんの歌唱技術が並々ならぬ努力によって培われてきたことの証明だろう。
この歌はファルセットをたっぷりと聴かせてくれた後、最後の1コーラスは転調して音域を下げ、地声で音量を上げて歌われる。そして音楽の盛り上がりが最高潮に達したところで美奈子さんが少し迷ったようにしてファルセットに移行する箇所がある。ここは地声で出せるはずの高さなので、おそらく元々は地声で通す予定でいたのだと思われる。
見方によっては“傷”ともとれる箇所だが、「ここをなぜNGにしなかったのか」というファンの問いかけに、「晴れ ときどき くもり」のプロデューサー牧田和男氏は簡潔に「NGにしたら、最初から全部録り直しですからね」と答えたという。そして「晴れ ときどき くもり」は切り貼りなしの録音だったそうだ。
美奈子さんはスタジオ録音といえどもテイクのカット&ペーストを潔しとしないタイプの音楽家だったようだ。この一つ前のアルバム「Junction」に収録された「つばさ」もオーケストラとの一発録りだったといわれている。一部の隙もない完璧な録音を仕上げることよりも、音楽の生きた流れを大切にしていたのだろう。
そして「全部録り直しですからね」というのはおそらくやり直しの手間を惜しんだ言葉ではなく、美奈子さんも牧田氏もこのテイクに十分得心していたということを表しているのだと思われる。実際のところこの部分は美奈子さんの感情が激しく高まっている箇所で、聴いていると地声とファルセットの境界をフォルティッシモで押し通す美奈子さんの素晴らしい迫力に深い感動を誘われてしまうのである。
美奈子さんは全ての感情を込めて歌い切り、満足して収録を終えたのだろう。やはりここは“傷”ではなく“美奈子さんの感情の高ぶりの痕跡”と受け止めておきたい。
以前にも述べた通り「この歌をfor you」はやや地味な楽曲ではあるが、美奈子さんのキャリアの中で重要な位置を占める作品と見てよさそうだ。聴いていると美奈子さんがそばに寄り添ってくれているような安らぎを感じさせてくれる。これからも大切に聴いていきたい珠玉の名曲である。
謝辞
この稿を書くにあたっては充実野菜さんによる牧田和男氏へのインタビューや、ファンサイトにおけるたぼさんはじめみなさんによる議論を参考にさせていただきました。ここに記してお礼申し上げます。ありがとうございました。
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