「1986年のマリリン」

2006年7月 6日

作詞:秋元康 作曲:筒美京平 編曲:新川博
シングル「1986年のマリリン c/w マリオネットの憂鬱」(1986.2.5)、ア ルバム「LIPS」(1986.06.04)所収。現行のCDでは「CD&DVD THE BEST」TOCT-25857(2005.12.07)等に収録されている。

言わずと知れた本田美奈子さん最大のヒット曲。今日多くの人が彼女の名を知っているのはこの曲によるところが大きいだろう。しかし私にとってはあまりにも苦い思い出のしみついた曲となってしまった。というのもファンを自称しながら今頃になって慌てて音源やら情報やらの蒐集に苦心するという情けないことをやっている原因は全てこの曲にあるからだ。


1985年4月にデビューした本田美奈子さんはアイドル歌手として順調なスタートを切り、特に4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」はこれからどんな歌を聴かせてくれるのかに期待を抱かせる佳曲だった。当時それほど音楽には関心がなかったのだが、そのあまりのかわいらしさに虜になってしまっていた私としても次に発表される歌を心待ちにしていたものだった。

そして翌年の2月に売り出されたのがこの「1986年のマリリン」だった。当時のアイドルポップスとしてはやや常識はずれの表現スタイルをとったこの曲は忽ちのうちに大ヒットし、「へそ出しルック」や腰を激しく振る振り付けと相俟って世の中の話題を独占したのだった。

しかし私はどうしてもこの曲が好きになれなくて、世間の狂騒をよそに一人疎外感を味わっていた。折角出会うことができた憧れの人が一躍時の人になる一方で自分はそこから取り残されるというのは実に辛い体験だった。


美奈子さんはデビュー当初から“アイドル”と呼ばれることには抵抗を感じていたようで、(今では珍しくもないことだが)“アーティスト宣言”をしてアイドルファンの反発を招いたりもしていた。この曲もおそらく「マリリン・モンローのようになりたい」という美奈子さんの思いから生まれたのだと思われる。次作の「Sosotte」へと続くやや背伸びしたお色気路線は、飾り物のお人形にはなりたくないという彼女の焦燥の表れでもあるのだろう。

しかし私としては“アーティスト宣言”も“脱アイドル”も結構だけれど、「…マリリン」の路線には全く納得がいかなかった。この人の本当の魅力はハリウッド風の煽情的なグラマーとは全く違ったところにあると感じていたからだ。当時の私は「マリリン・モンローになりたがっている美奈子さん」の歌ではなく、「素顔の本田美奈子さん」の歌が聴きたかったのだと思う。結局この歌のヒットをきっかけに私の気持ちは美奈子さんから急速に遠のいていったのだった。今にして思えば一年にも満たない、短い恋であった。

大ヒットしたのがこの曲でなかったら、あるいはヒット曲に恵まれずB級アイドルの座にとどまっていたならもう少し彼女を追いかけていられたのでは、という思いは突然の訃報に接して以来ずっと胸の奧に渦巻いている。私は長い間彼女のことを気にもかけていなかったのだ。だから亡くなったと聞いて深く傷ついていることは自分でも意外だった。長いこと事実上忘れていた人の死がどうしてこんなに悲しいのか、逆の言い方をすればそれほど大切な人をどうして忘れていることができたのかについて、あれ以来自問を重ねて来た。あの時置いてきぼりにされた悔しさは、ずっと胸の奧に刺のように突き刺さっていたようだ。私はおそらく彼女を忘れていたのではなく、あの辛い体験を思い出さないようにしていたのだと思う。


美奈子さんとの「再会」を果たしたのは彼女がクラシックを歌い始めた、と聞いてからのことだった。彼女自身「クラシックを歌えるようになるとは夢にも思っていなかった」と語っているし、私の方もアイドル時代の美奈子さんに恋をしていた頃には自分がクラシック音楽を愛聴するようになるとは思ってもみなかった。この全く意外な場所での再会は実にうれしい驚きだった。久しぶりに見る初恋の人はあの頃よりもさらに美しく変貌を遂げていた。もはやその呼び名を嫌っていた「アイドル」ではなく、アーティストとしての自己を確立したという自信が華奢な体に風格を与えてもいた。呑気な私はあの時聴きたいと願っていた「素顔の美奈子さん」の歌をこれからはじっくりと聴かせてもらえるのだろうなどと夢想したものだった。

だが彼女はそれから間も無く、鈍重な私を見捨てるかのようにあっけなくこの世から立ち去ってしまった。彼女の足早な歩みに、私はついに追いつくことができなかった。


いうまでもなくこの歌は美奈子さんの歌手人生を語る上で欠かすことのできない曲である。この曲の大ヒットは歌手としての美奈子さんにとって幸福なことだったのかどうか、というのはとりわけ重要な論点だと思う。上記のような理由で私には冷静に考察するのが難しいのだが、このことについて少し考えてみたい。

この曲は彼女の名を広く知らしめたばかりでなく、アイドル歌手の枠におさまらない卓越した歌唱力を印象づけた。その一方で、ロック、ミュージカル、クラシックと表現の場を度々変えてきたにもかかわらず、いつまでも「…マリリン」のイメージがまとわりついてくることにもなった。「脱ア イドル」以降、彼女のTVでの露出がその活躍に比して驚くほど少なかったのは世間、あるいは放送業界の彼女の見方が「『…マリリン』をヒットさせた元アイドル」でしかなかったことの表れでもあるだろう。

美奈子さん自身は「…マリリン」ばかりを要求されるのに戸惑いも感じることもあったようだが、頼まれれば喜んで歌う、という姿勢を貫いていたように見受けられる。『題名のない音楽会』に出演した際のオーケストラ伴奏による「誰も寝てはならぬ」、「命をあげよう」とのメドレーや『AAA』での「ジュピター」とのメドレーなどは彼女の表現の幅の広さを見せつける、素晴らしい熱唱だった。

こうした歌唱を聴けば、私としても美奈子さんの多彩なレパートリーの中にこういう歌があるのはよかったと思えてくる。あれ程の爆発的なヒットにならなければ、あるいは私の受けた傷も軽いもので済んでいたのかも知れない。当時の録音をあらためて聴いてみると、まだあどけない少女が大人の色気を漂わせようと背伸びをしているいじらしさ、かわいらしさのようなものも聴き取ることができる。これは中学生だった私にはできなかったことだ。私の方にもう少し受け止める度量があれば、この曲にまつわる思い出も違ったものになっていたかも知れない。ただやはり私にはこの歌が今もって美奈子さんの代表曲として扱われているのを残念に思う気持ちは拭い去ることができない。


pumpkinさんの述懐によると、美奈子さんはファンに向かって「ここまでついてきてくれてありがとう」と言われたという。私には痛い言葉だ。それは活躍の場を移す毎に新たなファンを獲得してきたと同時に、その度にファンを失ってきた美奈子さんならではの感慨なのだろう。「…マリリン」で挫折した私などは最も早く落伍した部類に属すると思われる。美奈子さんには「ついていけなくてごめんなさい」と詫びるほかはない。でもできることなら強く憧れながらついていけずに取り残された私の悲しみも酌んでいただけたら、と思う。

私の美奈子さんへの思慕はこうして永遠の片想いに終わってしまった。この悲しみは終生消えることはないだろう。ただ、美奈子さんが自身大切にし、ファンにも呼びかけた「いつまでも青春」という言葉だけはお蔭で実践できそうだ。何しろその名を思い起こすだけで純愛物語の主人公にでもなった気にさせられてしまうのだから。

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